私たちの「専門性」ってなに?
12月13日、東京都心身障害者センター主催の移動支援サービス提供者向け研修会に講師として招かれた。移動支援の意義について話してほしいという要請であったが、私としては一番基盤になる知的の当事者との関係性、支援者のかかわりの姿勢が彼らを「障害者」としていること、「厄介なやつ」ということで全体像をとらえていることの捉え直し抜きに、障害特性を学んでもなんの意味もないことを話させてもらった。どこまで伝わったかわからないが、今このへんを強調しないといけないという実感が、ともにネットのサポーターをみていても、また国の動向をみていても強くあるからだ。
12月14日に行われたパーソナルアシスタンス☆フォーラムでの「重度訪問介護の対象拡大」の傾向と対策 に参加して改めてその思いを強くし、私たちの「専門性」ってなんだということを言葉化していかなければとも感じた。「重度訪問介護の対象拡大」は、これまで重度身体障害者にしか認められなかった見守りも含む「なんでもあり」の類型を知的・精神にも拡大するもので、総合支援法成立時に滑り込みで入れ込まれたものだったが、厚労省はここにラブ注入ならず「専門性注入」を図ってきた。
そもそも重度訪問介護の前身の日常生活支援、その発足の脳性まひ者介護人派遣事業からの歴史は、当事者とともに生きるヘルパーを求めてきた歴史でもあった。今回の対象拡大はきわめて単純に必要とする知的・精神の障害者にも使えるようにすることでよかった。「身体介護」「家事援助」「行動援護」「移動支援」と切り刻むことができない知的・精神の当事者の介護には「見守り」の必要性も含め使いやすく、合致しているからだ。厚労省の「専門性」が長時間介護を行ってきた当事者やそこにかかわってきた支援者の見識をさしているのかというと、どうもそうではないというところが実は一番問題なのかと思う。
フォーラム当日、益留俊樹氏は「いつのまに私たちは『お客様』に成り下がってしまったのか」と問うた。身体は自己決定できる、知的は自己決定できない・専門家が関与しないとあぶないという図式自体がちがうと提起した。また岡部耕典氏は「自己決定による自立」から「当事者主導の共同決定による自立」への自立感の転換が必要としたうえで、「『パーソナルアシスタンスの専門性』とは、生活をともにすることによって、支援の個別性・継続性・包括性・当事者の主導を<支援者ー当事者>が双方向から確立していくこと と提起した。
私は「生活をともにする」感、その前段でいえば「一緒に楽しむ」感とか、差別を受けた時にわがこととして「一緒に怒る」とかもふくめたことを前提として「わからない」当事者を「わかろうとする」支援者を、当事者に「わかってもらおう」としても「甘い」と、それでも斜め上をいき「裏切る」当時者に「おいおい」とおどろき「すげえな」「そりゃ許さない」とかいう関係を重ねていく「意地や覚悟」こそが「専門性」といってもいいのかと思うが、まるで整理できていない。このあたりはもっと考えていきたい。(藤内)